院長 新井 孝彦
H3 北海道医療大学
歯学部入学
H9 北海道医療大学
歯学部卒業
H9 大阪歯科大学
総合診療部 入局
H10大阪歯科大学
総合診療部 修了
H10大阪歯科大学
歯周病学講座入局
・歯科医師臨床研修指導医
・
日本顎咬合学会認定医
・
大阪歯科大学 歯周病講座 非常勤研修医
・
日本歯周病学会
・
国際歯周内科学研究会
・
日本ヘルスケア歯科研究会
まだまだ発展途上の医院ですが、皆様にお口の健康を通して豊かな人生を提供するべく、
日々研鑚に励む毎日です。
子供時代のこと
わたしの父は自営業をしていた為、夜帰宅する時間も遅く、土曜 日曜も働いて おりあまり家にいませんでした。
母も父の仕事の手伝いをしていた為あまり両親と遊んだ記憶がありません。友人たちから、「日曜日は家族で遊園地やピクニックに出かけてきた」
などと聞くととてもうらやましく思っていました。
しかし、私には3人(姉・妹・弟)の兄弟がいたのでさみしくはありませんでした。
よく、4人で力を合わせ家の手伝いをしていたことを思い出します。その中でも、姉の存在は大きかったです。
わたしとは年子なのですが、いつも勉強を教えてくれ、弟妹のために食事の用意をしてくれたり、
当時のわたしとは違いとてもしっかりしていました。 家事の手伝いもしながら、勉強も出来、
学年TOPの成績優秀で近所でも天才と言われるほど
の姉でした。しかも顔も美人なのです。
当時のわたしといえば、学校が終われば毎日友人と夕方遅くまで遊び、いろんなヤンチャをしたものです。
そんな姉がわたしにとって自慢で、いつもいつも姉のようになりたいと思っていました。
姉の存在が今のわたしの職業に就くきっかけになったのです。
現在 姉は、弁護士として社会に貢献しています。いまでも姉のことは尊敬しています。
思春期のこと
この時期になると、両親も将来のことを考えはじめます。
親戚に心臓内科の部長をしている伯父がいて、「孝彦は医者にむいてるぞ!」と言われました。
なぜならわたしは左右両ききなのです。それが外科医にはむいているらしく、医者になれ!といわれました。
その日以来、父には「医者になれ~! 勉強しろ~!」と毎日のように言われ続けました。
しかし、わたしには夢があったのです。実はお笑いが好きで、明石屋さんまさんにあこがれており、芸人になりたかったのです。
「芸人になりたい!」などと当然、父には言えずずっと悩んでいました。そんなわたしに気づいたのはやはり姉でした。姉は、
「反対されることはわかっているけど、一度自分の正直な気持ちを話してみたら」とアドバイス。
翌日父に「芸人になりたい!」と話してはみたものの「そんなこと絶対に許さ~ん!」と案の定猛反対されました。
それでもわたしは芸人へ夢を捨てきれず、思い切って家を出ようと決心しました。と、またここで姉の登場です。 見事に説得され、
医者への道を進められました。
結局医者にはなれなかったのですが、滑り止めに受けていた歯学部に合格しました。
大学時代のこと
父のもとを離れたかったことや、
大阪以外の土地に行きたかったため、北海道の歯学部を2次募集で受けていたのです。
わたしの北海道生活のはじまりです。
生まれてはじめての一人暮らし、そうじ・洗濯・家事などすべて自分です。いままで、
両親や姉を頼っていたばっかりにひとりでするのは大変でした。しかも北海道という雪国で気温も違いとまどいだらけでした。
言葉も違いなにをしゃべっているのかわからないこともありました。反対に関西弁も北海道のひとにはよくわからず、怖いとよく言われました。
北海道は素朴で北の国からのイメージ(ちょっといいすぎですが…)とても心が洗われました。大学5年生の頃、
わたしはある全国で有名な歯科医の先生の医院でお手伝いをしていました。その先生はインプラントをメインにされていました。
患者様からの信頼も厚く、技術はもちろんすべてにおいてパーフェクトな先生でした。先生と出会ったことで、
なんとなく歯科医になろうと思っていた自分が情けなく思い、それから真剣に歯科医にむけて取り組みはじめました。
大学病院時代のこと
大阪にもどって大学病院では歯周病科に勤務しました。
教授・先輩方にご指導を受け、「出来るだけ歯を抜かず、保存するという」方針で治療をしてきました。
ここで学んだことを「自分の考えている診療を患者様に十分提供したい」という思いが日に日に高まってきました。
開業にむけて
そこで、
平成14年 淀川区西三国に、あらい歯科医院を開業しました。
基本コンセプトは
・出来るだけ歯を抜かず、保存する
・コミュニケーションを大切にする
・地域の皆様のファミリーデンティストでありたい
・痛くない治療
・笑顔の耐えない医院
・リラックスしていただけるような診療室